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美作地方、岡山県の交通、民俗、方言など

美作のハレの日を祝うさば寿司の文化

こんにちは

美作地方の10月は各地で祭りが行なわれる賑やかな季節です

そして秋祭りのご馳走で欠かせない食べ物といえば、なんと言っても「さば寿司」です

海のない美作地方なのに、さば寿司の文化は江戸時代からあります。

材料となるサバは主に境港で採れたものを塩漬けにして、出雲街道を利用して真庭、津山に1日で届けられたといいます。若狭街道因幡街道とともに出雲街道が別名鯖街道ともいわれるゆえんです。他にも倉吉方面からや鳥取からもサバが流通していました。

粗塩で締められていたサバは保存だけでなく、家庭で調理する頃には酵素の作用で旨味が増すというメリットもあったようです。

 

さて、一口にさば寿司といっても、工程や材料が地域や家庭によって違っていることが過去の調査でわかっています。

美作地方の家庭で作られていたさば寿司は以下の3つの種類があるそうです。

①押し寿司 ②姿寿司 ③こけら寿司

スタンダードはもちろん①の押し寿司です。

現在スーパーや道の駅で売っているものはほぼ全てこの形ではないでしょうか。塩サバを3枚におろし、塩をして、抜き、薄皮や小骨を取るなどして砂糖と酢に漬け、すし飯に載せて押します。美作のさば寿司のすし飯は砂糖の量が多めで甘いといわれています。

最近は生のサバや焼いたサバを使用したものも売られているようですが、基本は塩サバです。刻み込んだしょうがをすし飯に混ぜる家もあるようです。

②の姿寿司ですが、津山の一部地域などで作られていた記録がありました。姿寿司は背中または腹を開き、身の部分にすし飯を詰めるものです。姿寿司の場合は頭を落とすと首切りを、腹から開けば切腹をイメージさせると、頭をつけ、背中びらきの姿寿司が主流だったようです。

さらに調べてみると新見のお店のホームページから画像が見られます。美作地方よりも新見の方が駅弁で駅弁でもさば寿司を売り出していたこともあるので全国的には有名なのかも知れません。

https://otonano-shumatsu.com/articles/225

③のこけら寿司は旧八束村中和村など鳥取との県境に近い地域で作られていたもので、酢で締めたサバを小さく丸めたすし飯に載せてクマザサに載せて、寿司桶に並べていき上から重石をかけるものです。

自分は①の押し寿司しか食べたことはありませんし、②については調べてみるまで存在を知りませんでした。

小さい時は、さば寿司はちょっと臭みもあるし正直苦手でしたが、大人になり味覚が変わったからでしょうか。今は美味しいさば寿司が食べたくなります。

ただ、さば寿司を家庭で作る家庭もだいぶ少なくなっているはずです。

実際、私の実家の母親も「さば寿司は骨を取ったり、塩を抜いたり手間がかかるから」とずいぶん前に作るのをやめていました。

コロナもあり、家でご馳走を作って親戚や近所の人とハレの日の祝いをすることも難しくなっています。

どのように地域の食文化を継承していくか。今問われています。

 

 

 

 

美作地方の鉄道③因美線の昭和22年11月時刻表

こんにちは。姫新線津山線に続き、22年11月の因美線について書きます。

魚など昔から鳥取との交易が盛んだった美作地方ですが、終戦直後だからでしょうか。列車はかなり少なく鳥取から津山までは3本、津山から鳥取までは5本となっています。時刻表によると鳥取からの列車のうち2本が県境の那岐止まりになっているのです。これでは当然列車の数が合わなくなるので、那岐から津山までは客扱いをせずに貨物などを運んだのかもしれませんが、詳しくわかりません。

また、意外と言っては失礼かもしれませんが、最速の列車は2時間半ほどで鳥取と津山を走っています。当時の津山線と大差がないということで驚きです。(元私鉄の津山線は大変だったのかもしれませんが)

鳥取からの始発列車は4時39分発、津山着は7時10分とやはり朝早く設定されています。

以前、因美線を使った鮮魚の行商の記事を書きましたが、鳥取駅から魚を卸売りする人が乗り込み、車内で途中駅から乗り込む行商人に売り、美作地方へ売り歩いたのはこの列車を使っていたと思われます。

行商人が売りに来ていたと言われる主な駅の時刻を当てはめてみました。

鳥取0439→美作加茂0635→高野0656→津山0710着

津山線乗り換え0744→亀甲0824→誕生寺0859

姫新線乗り換え0724→久世0819→中国勝山0828

姫新線乗り換え 東津山0704着 0718発→佐用0826  ※林野方面の乗り換えは東津山であった可能性が高いです

因美線始発の津山からの乗り換えは接続が便利にとられています。

鳥取には戦前から鉄道を使って物品の運搬や行商人が多くいて、昭和16年には鳥取商業組合も発足していたらしいので、国鉄も配慮したダイヤを組んでいたのかもしれません。

津山発の鳥取行き始発も4時33分と早いです。これは智頭0608などから鳥取に向かう人への必要性からだと思われます。

 

終列車は鳥取から津山までの終列車は鳥取を16時22分発、津山着18時50分と大変早くなっています。ちなみに津山線の岡山方面の終列車はとっくに出ているので、この列車ではその日中に岡山に行く場合はできません。

逆に津山から鳥取への終列車は19時15分、鳥取着は23時13分とかなり遅く設定されていて、岡山方面からだけでなく、姫路や広島からやってくる直通列車の人が乗り換えしやすくできています。

因美線鳥取の人には非常に大切な路線であったと思われます。

 

美作地方の鉄道②津山線の昭和22年11月時刻表

こんにちは

前回の姫新線に続けて、今日は昭和22年11月の津山線の時刻表を紹介します。

津山線はご存じの通り、中国鉄道本線として開業し、経営難と戦いながらもガソリンカーの導入などを先駆的に進め、戦争が激化する前には津山と岡山を最短1時間46分で結びました。

しかし昭和19年に国有化され、終戦を迎えます。

終戦直後の津山線はガソリンカーどころか客車もろくに用意出来ず、屋根なしの貨車での旅客輸送をすることもありました。

すし詰めや転落事故が相次いだ、津山線には『超殺人列車』という不名誉な異名がつけられており、昭和21年には通勤客から国鉄

①貨車の増配 ②一区間乗車の禁止 ③通勤監視委員の設置などを申し入れたそうです。(山陽新聞社 岡山の鉄道より)

 

そんな時代から抜け切らない津山線の昭和22年11月の時刻表を見てみました。

岡山ー津山7往復

岡山ー福渡2往復

岡山ー建部0.5往復 です。

岡山から津山までは、多くの列車は約2時間半ほど、一部列車は3時間近くかかっています。

戦争で中国鉄道の努力が一旦リセットされた形です。

特筆すべきことは津山線岡山駅からの始発列車が4時27分とかなり早いことです。

そしてこの列車は備前原と牧山を通過しています。朝4時台で乗降客が見込めないからでしょうか。それでも当時としては珍しいと思います。この始発列車は弓削0610→亀甲0634と停車して津山には6時56分に到着します。そして津山発7時36分発の鳥取行きに乗れば10時3分に鳥取に到着できますが、津山線国有化の歴史が浅いこともあり、岡山と鳥取を直通する列車はまだありません。

なお、この始発列車は新見方面、姫路方面との接続も便利にできていて、乗り換えすると林野には7時41分、中国勝山には8時28分には着くことができました。

逆に津山からの岡山行き始発は5時26分発と姫新線の勝山方面や因美線よりも遅い出発で、岡山には7時42分到着。所要時間は2時間16分です。なお岡山に一番早く着く列車は、福渡からでており、岡山には7時に到着する列車があります。7時台、8時台に3本の列車が岡山に到着するように設定されていた津山線は、明治から走る中国鉄道の伝統もあり、通勤通学に利用されていたことがわかります。

しかし石炭不足からでしょうか。岡山駅から9時15分に発車した次の列車は13時12分まで、津山駅では7時44分発車の次は12時15分まで列車が来ない時間帯があります。

最後に終列車についてですが、津山発17時36分→岡山着20時12分、岡山発19時27分→津山着22時30分です。

参考に津山駅から出発する新見行きの終列車は18時20分、林野方面(播磨新宮行き)の終列車は19時39分、鳥取行きの終列車も19時15分ですから、津山線はずいぶん早いと思います。

次回は因美線について書きます。

美作地方の鉄道①姫新線の昭和22年11月時刻表

こんにちは。緊急事態宣言が終わりました。このまま終息して今年の年末年始は津山に帰省をしたいと切実に願っています。

今日からJRのダイヤが改正されました。

https://news.yahoo.co.jp/articles/bd6d59441d1ea9123904cb8b8de32d86cee2685c

津山線因美線は減便になりましたね(津山線はコロナで先行実施)。ローカル線はどこも厳しい状況です。

昨日、東京の青山にある「旅の図書館」に行きました。

日本交通公社が観光や民俗、交通に関わる資料を揃えた専門の図書館です。とにかく資料の数がすごいです!

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今日は昭和22年11月の姫新線のダイヤを紹介します。

まず当時の姫新線の時刻表は芸備線と一緒に掲載されています。姫路から広島まで実に323.6キロの区間が通しで掲載されています。まるで幹線みたいです。

美作の拠点である津山駅から新見方面への列車は1日6本。今のような中国勝山駅止まりの列車はなく、すべての列車が新見まで走っています。そして備後十日市駅(現在の三次駅)まで走る列車が2本、備後落合駅行きが1本ありました。新見方面への津山駅の始発は5時ちょうど発の備後十日市行き。新見からの始発の津山到着は7時3分です。

そして、新見方面からは広島駅始発の直通列車(各駅停車)があります。この列車は津山から先も列車番号を変えて播磨新宮まで実に301キロを12時間半近くかけて走っていた可能性があります。

 

816列車 広島1027発→志和口1542→備後十日市1248→備後落合1440→新見1644→津山1842着 

860列車に変更?津山1927発→播磨新宮2252着

 

次に津山から姫路方面への列車ですが、こちらもそれぞれ1日6本です。

始発列車は新見からの姫路行き列車であり津山発は7時12分とかなり遅めです。ただ勝山や落合は6時台から汽車に乗れば津山に7時に着くのは非常に便利だったはずです。この列車の姫路到着は9時45分です。当時は新幹線もない時代なので大阪方面に行くのは、やはり姫新線を使用した方が便利なはずなのですが、姫路まで直通する列車は1日3本だけで、始発の姫路行きを逃せば、次は14時台まで列車はなく不便に見えます。ただ、戦後直後で機関車も客車も足りない時代だったことも考慮する必要もあるかと思います。

姫路方面から津山に到着する一番早い列車は佐用を6時11分を出発する新見行きの列車で7時22分に津山に到着します。姫路からの列車は9時46分到着が一番早い到着です。

注目すべきは津山ー林野の列車が1往復あることです。湯郷温泉の需要でしょうか。

最後に、時刻表をよく見ると列車によって所要時間が大きく異なっています。特定の駅で長時間停車をしているわけではなく、コンスタントに時間をかけて走っています。

例えば、津山5時発車の備後十日市行きは新見まで2時間1分で駆け抜けていますが、そのすぐ後の5時40分発の列車は新見まで3時間半かかっています。

牽引する蒸気機関車の性能が違うのか。荷物(貨物)の取り扱いなどで時間を要しているのか時刻表だけではわかりません。誰かわかる方がいれば教えてください。

 

次回は昭和22年の津山線を紹介します。

 

 

 

カムカムおじさんは岡山県高梁市出身

こんにちは。今日は美作地方の話ではないです。

11月からの朝の連続テレビ小説で「カムカムエヴリバディ」がはじまりますね。

https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/tag/index.html?i=24571

朝ドラでは吉行あぐりさんをモデルにした「あぐり」以来、久々の岡山にゆかりのあるドラマです。ホームページを見ても岡山ロケがあったようで、今から楽しみです。

ドラマは女性が主人公ですが、タイトルにもなっているカムカムおじさんこと平川唯一さんは岡山県高梁市出身のラジオアナウンサーです。

平川唯一さんは、明治35年に旧上房郡津川村で生まれ、16歳まで過ごしました。コレラ避けで有名な木野山神社の近くです。

平川さんの少年時代は、朝早くに起きて山に草刈りに行き、夜は夜なべ仕事を11時くらいまでしていたという大変な苦労をしています。

父親は当時アメリカに2度目の出稼ぎに行っており、なかなか帰国しないため、帰って来るように手紙を出したところ、逆に「アメリカに来てみては」と言われ、シアトルに渡ります。

線路の保線作業をしていた父親と会い説得して岡山に戻ってもらいますが、自身はそこから仕送りも受けず、単身で生活を始めます。17歳でアメリカの6歳児が通う小学校に入学、そこから飛び級をして7年間で高校まで卒業し、物理の専攻で大学に通い始めるも途中で演劇に転向し、卒業後はハリウッド映画にも出演したそうです。アメリカで日本の人と結婚し、牧師の資格もとったそうです。

当時、アメリカでは日本人に対する差別が厳しくなっていましたが、平川さんの周りはとても好意的で、逆に「アメリカの民主主義」を生活の中で実感したと話しています。

昭和11年に日本に帰国。その際にNHKのアナウンサーに応募します。

試験当日にその日の朝日新聞のコラムを読み、練習がてら英訳したら、試験問題として同じ問題が出されたらしく、狭き門を通過したと平川さん自身が昔ラジオで話していたそうです。これ以上書くのはやめておきます。

9月には平川唯一さんや、ラジオ番組の裏話などについて、息子の平川冽さんが執筆した『カムカムエヴリバディ 平川唯一と「ラジオ英語会話」の時代』が復刻発売されているようです。

 

 

 

 

津山は日本のロンドンじゃ

こんにちは。変なブログのタイトルです。

これは私の小学生の担任が言った言葉です。意味わかりますか?

津山は霧が発生する日が多く、秋から冬にかけてはとくに多く発生します。

子どもの頃、学校に行く時間帯は本当に霧の日が多かったものです。川の近くだったこともあり、目の前にあるはずの山や建物も見えないくらいに周りは真っ白でした。学校に着いても1時間目が終わるくらいまでは霧が晴れませんでした。

先生は、このことをわかりにくく私たちに言ったのでした。(ロンドンに行ったことがないのでわかりません)

津山盆地は全国でも有数の面積で朝夕の気温差が大きく、そのなかを吉井川や加茂川や皿川、宮川などたくさんの河川が流れ込みます。しかも気候は比較的穏やかです。

最近は黒沢山から霧の津山盆地を眺めるのも流行っていますね。

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津山では以下の条件で霧が発生しやすいと言われています。

①快晴であること

②風がない(風速2メートル以下)

③前日18時の気温と翌朝の最低気温の差が5℃以上ある

④前日21時の湿度が70%以上ある

⑤日の出前1〜2時間前から日の出後3時間ほどの時間帯

10月から12月の津山盆地はこの条件が揃いやすく霧がよく発生します。

 

津山盆地の霧は年間で100日近く発生していたようですが、現在では50〜80日に減っているようです。1951年から2017年の津山盆地の霧の発生した日を調べた鳥取環境大学の重田氏によると、過去68年の津山の年間霧発生日は平均82日このうち10月から12月の3ヶ月で平均38日だそうです。

霧の発生が減ったのは津山だけではありません。全国的に霧の発生は減っているようで、この原因についてはさまざまな人が挙げられていますが、以下のようなものがあります。

地球温暖化により気温が上がった

②都市化がすすみ夜間の気温が上がった(特に冬暖かくなった)

アスファルトやコンクリートの面積が増えることで土の水分が減少した

減反などで水田が減少したから

などです。

 

岡山県は自らを「晴れの国」とアピールしていますが、県北出身者の私がこのスローガンにいまひとつピンとこないのは霧が多かったためかもしれません。

蒜山や上斎原など山深い地方は「100日雪の下」

そして津山など県中北部の盆地は「100日霧の朝」です。

 

 

美作地方は今も松茸の産地

こんにちは

お彼岸が過ぎて、いよいよ秋が近づいてきました。

秋になれば、さまざまな山の幸、里の幸がもたらされます。

そして秋の味覚の王様といえば松茸です。

とはいえ、現代では簡単に手が届くものではなくなりましたね。

「米が不作の年は松茸がよう取れる」と昔の人は言っていました。今年は冷夏で雨も多かったので例年よりは多く取れるのではないでしょうか。(まあ、私の食卓には届かないでしょう)

 

岡山県が昨年12月に発表した資料(岡山県特用林産物生産流通統計)によると、令和元年度の岡山県の松茸の生産量は1.1トンで全国3位。全体の8%を占めます。松林が昔から多い岡山県は松茸の名産地です。

さらに県内市町村別のトップ3は新見が43.1%、真庭が24.8%、津山が10.1%と県北部がずらりと並びます。

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思い出話になりますが、私の子ども時代は秋の祭りくらいになると、親戚や知人から山でとれた松茸をいただき、お祭りの時にすまし汁や茶碗むしに入れていました。親戚のお祭りに呼ばれた時は、すき焼きに松茸を入れて食べさせてもらいました。松茸も買うものというよりは松林のある家の人からいただくものというふうでした。東京に出てきてからも、15年前くらいまでは、親戚の方から送っていただいていました。

 

話を戻して岡山の松茸の生産量は最盛期と比べて激減しました。統計によると岡山県の松茸の生産量は最大2738トン(昭和32年)もありました。

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生産量が激減した原因に松くいむしによるアカマツの枯死があげられます。松くいむしは、正式にはマツノセンチュウといい、明治時代にアメリカから輸入される木材に紛れ込み侵入したといわれています。アカマツ外来生物である松くいむしに抵抗力がありません。

松くいむしはカミキリムシを媒介とし、岡山県内では戦後に大発生し、県内のアカマツを枯らしました。岡山県内の被害は昭和49年が最大です。とりわけ県中南部の標高が低い松林は被害が大きかったようです。年中青かったはずの山(松の林)が、まるで紅葉したかのように一面赤くなった光景にびっくりしたことがあります。松くいむしによる被害は現在も続いています。

アカマツ岡山県の木として制定されています。岡山県は古くから文化がひらけた土地ですが、人が定住する中で原生林が伐採され、そこに建材や燃料としてアカマツが植えられました。松茸も下草を丁寧に処理しないと生えてきません。また、松の根の皮を食べるイノシシの対策も必要です。

松茸の生産量が減少したもう一つの大きな要因は、燃料としてアカマツを使わなくなったことと林業自体の衰退です。松茸は自然と人間が共生している証でもあったのです。