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兵器疎開の悲劇 〜福渡の爆発事故〜

こんにちは。

もうすぐ終戦から77年になります。

太平洋戦争において美作地域に空襲はありませんでしたが、徴兵で出征し亡くなった人や飢えや貧困で犠牲になった人がたくさんいます。二度と戦争のない世の中を希求します。

 

また、戦争に関わる悲惨な事件は美作地方でも起きています。

今日は福渡(当時は久米郡福渡村)で起こった兵器の爆発事故について書きます。

 

戦局が激しさを増す昭和19年あたりから、日本軍の武器や弾薬の疎開。いわゆる兵器疎開が盛んに行われるようになりました。

岡山県内で有名な兵器疎開先は、現在の岡山大学敷地内にあった広島陸軍の兵器補給分廠(しょう)ですが、その他の地域でも、武器や火薬を山に横穴を掘って貯蔵庫を作り保管したり、農業倉庫や公会堂、造り酒屋の蔵などにも格納された。分散格納された兵器などを監視するために、津山や福渡、和気などにも分廠員が常駐されていたと言われています。

 

建部町史によると、福渡への兵器疎開は昭和19年の秋から20年の夏にかけて行われたと記録されています。

福渡村の石引地区では48ヶ所(他に未完成7ヶ所)、上建部村で約30ヶ所、山に幅2メートル、高さ2メートル、奥行き10メートルの横穴を開けて貯蔵庫が作られました。

 

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(石引地区の地図。JR福渡駅に程近い位置にある)

 

貯蔵庫の建設は姫路や鳥取から兵隊がやってきて近隣の奉仕団と突貫工事で行なったそうです。

落盤事故や栄養失調で数名の犠牲者が出たと当時を知る住民が証言しています。

また建部町史には兵器疎開が下神目にあった造り酒屋の蔵でも行われていたと記録されています。

収納された火薬や兵器の管理は福渡に常駐していた兵隊が行っていました。

 

昭和20年8月15日に戦争が終わるとすぐに、進駐軍が福渡に訪れました。

そして貯蔵庫に格納していた武器の検閲と処分が開始されました。

貯蔵庫から押収された銃などの武器が建部小学校の校庭や旭川の河川敷に集められて、そこで焼却処分をされたと住民が証言しています。

 

この最中に悲劇が起こります。

昭和20年10月16日午前7時すぎ、福渡の石引地区で貯蔵庫から押収し野積みしていた火薬に焚き火が引火して爆発したのです。この事故により現場近くにいた幼児が爆風により亡くなったほか、負傷者や家屋被害が多数発生しました。

そのうえ、当時残務処理のために福渡に残っていた旧日本軍の現場責任者も責任を取ると自決してしまったのです。

 

戦後77年も経ち、当時の悲惨な時代を生きてきた人が少なくなりました。

貯蔵庫も河川や農地の改修工事や自然に崩壊して残っていません。

だからこそ、戦禍の悲劇を正しく知り、継承していくことが必要だと思います。