まるしてんblog 美作地方.岡山県をつらつら

美作地方、岡山県の交通、民俗、方言など

国鉄美伯線と沿線の歴史①

こんにちは

みなさんは「美伯線」という国鉄路線があったことをご存じでしょうか。

美伯線は今から67年前の今日。1955年(昭和30年)8月16日に、津山駅と上井駅(現在の倉吉)を結ぶ国鉄のバス路線として開通し、1985年(昭和60年)の3月31日廃止まで約30年にわたって存在しました。

 

美伯線と言う名前は美作地方と伯耆地方を結ぶことに由来します。

何回かに分けて、国鉄美伯線と美作地方の沿線の歴史について書きたいと思います。

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まずは概略についてです。

美伯線は津山ー上井(倉吉)間の76キロを結ぶ国鉄のバス路線で、開通当時は約3時間半で2往復(奥津町史より)、1980年10月の時刻表では2時間40分で3往復津山と倉吉を走りました。

※なお1981年に人形峠にトンネルが開通しているため、さらに時間短縮がされていると思いますが、探せていないためこのデータを掲載しています。

 

バス路線は現在の国道179号線の旧道にほぼ沿っており、岡山県内の主なバス駅としては津山、院庄(姫新線の駅前)、鏡野町役場前、久田(旧奥津町の役場があったあたり、現在は苫田ダムで水没)、奥津温泉、上斎原、美作石越、県境(後に三朝町観光課の発案で高清水高原に駅名変更。ここまで旧上斎原村)です。

特に奥津温泉駅は温泉街の中心に止まることから大変便利で喜ばれました。

鳥取県内でも国道179号線に添いながら、途中で三朝温泉の温泉街に乗り入れ(昭和33年から)、倉吉を目指しました。

 

美伯線は旅客輸送だけでなく、途中駅の奥津温泉駅では手荷物・小荷物及び車扱い貨物の取り扱いも行っていました。さらに奥津温泉駅では観光地に相応しく国鉄の切符の発売も行なっていたといいます。

 

美伯線が開通するまでの沿線の努力は別の記事で書きますが、逆に事業者(中鉄バス、日の丸バス)からは民業を圧迫する存在だと反対の声が上がり、当時の運輸省公聴会も開催されました。

その結果、美伯線は中鉄バスや日の丸交通が国鉄と共通運行でバスを走らせていた時期もあります。

 

ちなみに、当時国鉄バスの路線の開業にあたっては法律で以下の4つの要件に該当するものに限られていました。

①鉄道輸送に「先行」するもの

②鉄道輸送を「代行」するもの

③鉄道輸送を「短絡」するもの

④鉄道輸送を「培養(駅へのアクセス)」するものです。

以上を「国鉄バス4原則」と言います。

 

交通協力会が1958年に発行した「鉄道辞典」によると、美伯線の使命は津山から山陰本線を結ぶ陰陽短絡線の役割を負うとともに、中国勝山駅から倉吉駅を結ぶ未成線(すでに完成していた倉吉線と姫新線を結ぶ南勝線)の代行的な役割を担って開通したとされています。

 

つまり、美伯線は国鉄バス4原則のうち②と③の役割を満たしていたといえます。

さらに言えば、岡山県北部や鳥取県の山間地域の沿線住民を津山駅や上井駅へのアクセス手段としても役割を果たしていたので④にも該当していたと言えます。

 

美伯線は自家用車の普及や過疎化、奥津温泉や上斎原などへの観光客の減少によってバス需要も減少し昭和60年(1985年)3月31日に廃止されました。

ちなみにこの日は南勝線の完成で陰陽連絡を目指していた国鉄倉吉線が廃止をされた日でもありました。

鉄道ファンが倉吉線に大挙して別れを惜しむ一方で、美伯線の最終バスは見送る人も少なく、あまりにもひっそりと走り去っていったそうです。

 

兵器疎開の悲劇 〜福渡の爆発事故〜

こんにちは。

もうすぐ終戦から77年になります。

太平洋戦争において美作地域に空襲はありませんでしたが、徴兵で出征し亡くなった人や飢えや貧困で犠牲になった人がたくさんいます。二度と戦争のない世の中を希求します。

 

また、戦争に関わる悲惨な事件は美作地方でも起きています。

今日は福渡(当時は久米郡福渡村)で起こった兵器の爆発事故について書きます。

 

戦局が激しさを増す昭和19年あたりから、日本軍の武器や弾薬の疎開。いわゆる兵器疎開が盛んに行われるようになりました。

岡山県内で有名な兵器疎開先は、現在の岡山大学敷地内にあった広島陸軍の兵器補給分廠(しょう)ですが、その他の地域でも、武器や火薬を山に横穴を掘って貯蔵庫を作り保管したり、農業倉庫や公会堂、造り酒屋の蔵などにも格納された。分散格納された兵器などを監視するために、津山や福渡、和気などにも分廠員が常駐されていたと言われています。

 

建部町史によると、福渡への兵器疎開は昭和19年の秋から20年の夏にかけて行われたと記録されています。

福渡村の石引地区では48ヶ所(他に未完成7ヶ所)、上建部村で約30ヶ所、山に幅2メートル、高さ2メートル、奥行き10メートルの横穴を開けて貯蔵庫が作られました。

 

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(石引地区の地図。JR福渡駅に程近い位置にある)

 

貯蔵庫の建設は姫路や鳥取から兵隊がやってきて近隣の奉仕団と突貫工事で行なったそうです。

落盤事故や栄養失調で数名の犠牲者が出たと当時を知る住民が証言しています。

また建部町史には兵器疎開が下神目にあった造り酒屋の蔵でも行われていたと記録されています。

収納された火薬や兵器の管理は福渡に常駐していた兵隊が行っていました。

 

昭和20年8月15日に戦争が終わるとすぐに、進駐軍が福渡に訪れました。

そして貯蔵庫に格納していた武器の検閲と処分が開始されました。

貯蔵庫から押収された銃などの武器が建部小学校の校庭や旭川の河川敷に集められて、そこで焼却処分をされたと住民が証言しています。

 

この最中に悲劇が起こります。

昭和20年10月16日午前7時すぎ、福渡の石引地区で貯蔵庫から押収し野積みしていた火薬に焚き火が引火して爆発したのです。この事故により現場近くにいた幼児が爆風により亡くなったほか、負傷者や家屋被害が多数発生しました。

そのうえ、当時残務処理のために福渡に残っていた旧日本軍の現場責任者も責任を取ると自決してしまったのです。

 

戦後77年も経ち、当時の悲惨な時代を生きてきた人が少なくなりました。

貯蔵庫も河川や農地の改修工事や自然に崩壊して残っていません。

だからこそ、戦禍の悲劇を正しく知り、継承していくことが必要だと思います。

 

 

名列車だった急行砂丘号

こんにちは。岡山DCキャンペーンのひとつとして、8月11日に25年前に廃止された急行「砂丘」号のリバイバル運転がされることが話題になっていますね。

岡山から智頭までの区間運転ですが、当時を知るものとしては嬉しい限りです。

 

急行砂丘号は因美線津山線を経由して走っていた急行列車で、もっとも多く運転されていた時は5往復もありました。

なお、岡山県内の停車駅は美作加茂・津山・亀甲・弓削・福渡・金川・岡山でした(一部通過する列車含む)。

 

この列車が元気に走っていた頃は、現在廃止の危機に瀕している因美線も陰陽連絡線の役割が与えられており、タブレット交換の必要性から多くの駅に駅員が配属されていて活気がありました。

 

津山線でも、高速化工事の前にも関わらず、現在でも行っていない津山ー岡山間をノンストップ運転で59分で結ぶという離れ技をやってのけています。

 

実を言うと、自分は砂丘号には2度しか乗ったことはありません。急行列車に乗るのって乗車券の他に急行券を買わなきゃいけなくて、やはり特別でした。

そして、いざ乗った時の思い出としては、ナイロン性のヘッドカバーがついている普通列車よりちょっとだけ良さげなクロスシートに座って、通過する駅を眺めながらやっぱり早いなぁって…。そんな思い出もあり今日は急行砂丘について書きたいと思います。

 

●まず、急行砂丘号のかんたんな歴史を列挙します。

 ・1960年 岡山⇄上井(現在の倉吉)と中国勝山間に設定された準急「ひるぜん」が運転開始

 ・1962年に鳥取⇄宇野を結ぶ準急「砂丘」として設定。山陰と四国を結ぶ列車としての役割も与えられる。

 ・1966年に国鉄の制度改正(営業距離100キロを超える準急は急行にする)で急行に格上げとなる。

 ・1972年新幹線岡山開業に合わせて、3往復に増発。運転区間は岡山⇄上井・鳥取となり、陰陽連絡急行としての役割が強化

 ・1977年現在の上皇夫妻と天皇陛下がインターハイのために岡山ー津山間を乗車

 ・1985年4往復に増発。うち1往復は岡山〜津山をノンストップで走り、1時間を切るスピード運転を実施。丸形の専用ヘッドマークが登場する

 ・1988年半室グリーン車登場

 ・1989年急行みささ号廃止に合わせる形で5往復に増発

 ・1994年ヘッドマークをダイヤ形に変更

 ・1997年11月28日 砂丘号廃止(急行つやま1往復に)

 

●愛され要素その1 最後まで残った「タブレット交換」

因美線では電気信号による列車の行き違いの安全確保ではなく、タブレットと呼ばれる円盤状の金属を持っているものしか線路に立ち入れないという「タブレット閉塞」の方法を残していました。そのため、列車の交換が可能な駅ごとで駅員と連携してタブレットを交換しながら走行しなければいけませんでした。急行列車で最後までタブレット交換が行われたのはこの砂丘号だったのです。

鳥取行きの砂丘号では因美線内は津山からタブレット交換のために運転士が2人体制となって運転されました。

94年に鳥取から智頭までのタブレット交換は行われなくなりましたが、東津山ー智頭間では高野、美作河合、那岐で通過しながらタブレットの投げ入れと受け取りをする光景が見られました(美作加茂駅は停車して駅員と直接タブレット交換をしていました)。

なお、タブレット交換の際、鳥取の運転士は腕で直接タブレットを受け取るのに対して、津山の運転士はケガ防止のため列車に付いていたタブレットキャッチャーという道具を使用していました。(手元にある鉄道ジャーナルの表紙に写っているのはたぶん鳥取の運転士ですね)

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●愛され要素その2 イラスト付きヘッドマーク掲示と専用塗装

1985年から砂丘号は急行列車としては珍しく、イラスト付きのヘッドマークを付けて走りました。初代は鳥取砂丘の風紋を模したイラスト。

その後鳥取砂丘ラクダを描いたダイヤ形のヘッドマーク。当時は急行といえば同じ顔ばかりだったのでヘッドマークがついただけで嬉しかったです。

車体の色も鳥取の海や梨をイメージしたエメラルドグリーンと薄い紫をまとった専用カラーに塗られて古いなりにも特別感をアピールしていました。

 

●愛され要素その3 異彩を放っていた半室グリーン車

急行砂丘は、運行開始直後からそれほど長い編成で走ることはなく、基本編成は4両でした(客が多い日はよく2両ほど増結していました)。JRになって編成は3両に短縮。その際グリーン車をなくすことがないように車両の改造が施され、当時は唯一半室グリーン車のある急行として走っていました。現在では全国で多くの特急で半室グリーン車が走っていますが、その先駆けのような存在でした。ちなみにこのグリーン車。ビジネス客には好評でしたが、地元の人はほとんど乗りませんでした(だって指定席料金より高いんだもん)。

 

他にも急行みささ号との併結運転や津山の弁当屋が車内販売をしていたことなどありますが、また別の機会に書きたいと思います。

スタンプ集めしてみませんか

こんにちは

新型コロナの第7波の流行が急拡大し、岡山県でも高齢者やその同居家族への混雑した場所への外出を控えることを呼びかけるなどとしていますが、間もなくお盆の帰省がはじまります。

 

人が混雑する場所になかなか行きにくいのですが、例えば帰省やお墓参りのドライブがてら、岡山県の町村会とRSK山陽放送)が行っている「おかやま12町村スタンプラリー」に挑戦するのはどうでしょうか。

このスタンプラリーは岡山県内の12の町と村に各2ヶ所づつ設けられたスポット合計24ヶ所を巡るものです。

応募は5ヶ所達成、12ヶ所達成、24ヶ所達成のいずれかから可能で、抽選でプレゼントがもらえます。スタンプといっても、リアルなハンコではなく、スマホのアプリを使って行われているので接触も回避できます。

 

県北部(美作地域)には該当する町村が鏡野町勝央町奈義町美咲町久米南町西粟倉村および新庄村の7つ(14スポット)あるので、挑戦してみる価値はあると思います。

このスタンプラリーは11月30日まで期間があるので、コロナの第7波の収束を待ちながら少しづつ行うこともできます。

https://www.rsk.co.jp/event/okayama12-stamp/

 

スタンプ集めといえば、昨年11月から今年の9月30日までを実施期間として岡山県内の神社仏閣を15ヶ所巡って応募する「まいられぇ岡山」もあります。

名神社仏閣は、岡山、倉敷、津山に集中しているので、うまく回ればスタンプを集めやすいものです。ちなみに美作地域内は6つの神社(津山4、真庭2)と8つの寺院(津山6、美作1、久米南1)が対象です。

 

高速道路でもスタンプラリーをやっています。

全国の有人のサービスエリアやパーキングエリアには「ハイウェイスタンプ」というものが置いてあります。

美作地方を走る中国道では勝央SA、真庭PA、大佐SAで米子道では蒜山高原SAにスタンプがあるそうで、上下線で絵柄も違います。(写真)

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中国地方全てのスタンプを集めれば認定証がNEXCOからもらえるみたいですが難易度は高いですね。

 

最後に鉄道駅のスタンプ。

美作地方は津山駅中国勝山駅の2駅にスタンプが置いてあります。

 

昔は多くの鉄道の駅に駅スタンプが置いてありました。院庄、東津山、亀甲、福渡、美作加茂…など。しかし駅の無人化によって撤去されてしまいました。

昔のスタンプを調べてみると、駅周辺の名所や名産物を絵柄としているもので、スタンプがあった当時の雰囲気が偲ばれます。

例えば山陽新報によると、昭和11年姫新線が全通した際、東津山駅では求めに応じて、駅・百間堤・鶴山城・国分寺と苺をあしらったデザインの記念スタンプを押すと紹介されていました。

(写真)

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1970年には約1400カ所の国鉄の駅にスタンプが設置されていたと言われており、JRになってもその文化は脈々と受け継がれてきましたが、駅の無人化により、徐々に数を減らしていきました。

 

(補足)

詳しくはわかりませんが、委託駅勝間田駅美作土居駅では人がいれば独自の記念スタンプを押してくれるみたいです。

 

 

 

 

美作の鉄道にまつわる不思議な話

暑い日が続きます。

夏といえば怪談やミステリー。

今日は美作の鉄道に関わるちょっと不思議な話を紹介します。

 

津山線建設工事に現れた怪力男「さださん」

明治31年、亀甲あたりの津山線(当時は中国鉄道)の建設工事現場に吉岡定次郎(さださん)という怪力の男がやってきた。4、5人で約200キロのレールを運んでいるのを見てさださんが笑うので、工夫が怒ったところ、さださんは1人でそのレールを持ち上げた。工夫はさださんに謝ったということだ。

 

津山口駅にあったお墓の話

津山線津山口駅にはかつてお墓があった。鉄道が開通した頃、駅で墓石を背負って来た男が行き倒れになって死んだ。気の毒に思った当時の駅員らは、男が背負っていた墓石を津山口駅の前に立てた。それに関係していたのか、津山口駅のトイレには幽霊が出ると言われていた。1971年に津山口駅が合理化で無人化になった際、当時の駅員が近くのお寺にお墓を移して供養したそうだ。

 

津山駅を守るお稲荷様

津山駅の敷地内には今でもお稲荷様が祀られている。このお稲荷様は駅ができる前からあったのだが、駅ができた当時お稲荷様は邪魔にされて近くの神社に移された。

津山駅ではまもなく駅が全焼したり、駅員が次々と病気になったりと災難が続いた。

これはお稲荷様のタタリだということになり、2年後にお稲荷様は元の場所に移し、構内守護神として今でも祀られている(写真)。

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毎月25日が祭日とされていて、国鉄時代は駅・機関区・保線区の代表が欠かさず集まっていた。このことを紹介した昭和56年の山陽新聞に記事によると、当時の機関区助役が「主要駅なのに昔から不思議と大きな事故がない。お稲荷様のおかげでしょうか」と取材に答えている。なお現在に至るまでも津山駅では大きな事故は起きていない。

※お稲荷さんは津山駅から津山まなびの鉄道館に向かう途中の国道沿いに鎮座しています(最上位稲荷大明神)。

 

因美線建設工事で人骨が多数見つかる

大正15年3月、因美線の建設工事で川の土砂を採取していたところ、数えきれないほどの人骨が次々と掘り出され一時工事が中断した。

実はこの場所は江戸時代、この地は津山藩の刑場で明治初めまでの間、明治初期まで多くの人が刑に処された場所だった。

そのため工事より遡ること10年前には、地元の有志が打ち捨てられていた「千人塚」を再建し、盛大な供養をしていたが、この出来事で参拝者約3000名を集めて再び盛大な納骨式が行なわれたのだ。

(記事を一部訂正します)

※千人塚は加茂川を渡る姫新線の鉄橋の近くにあり、今でも地元の人により丁寧に供養が行われています。

(写真)

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津山市営球場でのプロ野球公式戦

こんにちは。

今から半世紀近く前の1973年7月29日、津山でたった一度のプロ野球公式戦が開催されました。

 

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津山市営球場は両翼が狭く91メートルしかない。観客は内野外野合わせて26,800名入るとなっているが、おそらくそれほど入らないと思います。

 

以前の記事でも、このことは書きましたが、今回は試合のスコアとご当地出身の石井茂雄投手の活躍について紹介します。

 

まずは試合のスコアから

第1試合 観客8000人

太平洋 002 041 000 7

近 鉄 000 001 100 2

勝)柳田 負)鈴木 

本塁打 梅田2号、ビュフォード13号、土井17号

ヒット数 太平洋8、近鉄9  エラー 近鉄

 

第2試合 観客9000人

太平洋 000 302 301 9

近 鉄 000 300 001 4

勝)石井 負)神部

本塁打 永淵2号、ロバーツ1号、土井18号

ヒット数 太平洋16、近鉄9 エラー 近鉄

 

前日は鳥取市営球場で試合を行い、移動日なしで津山に来てダブルヘッダーで2試合行っています。

ナイター設備のない球場でダブルヘッダーを開催するというのはなかなかの強行軍です。試合が行われた7月29日は日曜日でした。

当時パリーグペナントレースを前期と後期に分けて開催しており、鳥取・津山の3連戦は近鉄と太平洋にとっては後期日程の開幕試合(近鉄の主催試合)でした。

太平洋クラブライオンズは現在の西武ライオンズの前身です。

 

第1試合近鉄の先発は後に通算317勝を挙げた大投手、鈴木啓示投手が10勝目をかけて登板しています。しかし試合は梅田選手のホームランなどで太平洋が5回の時点で6−0とリードして鈴木投手をノックアウト。近鉄は通算2452安打・465本塁打を打った土井選手のホームランなどで反撃をしますが、結果柳田投手が完投勝ちを収めました。

 

そして第2試合、太平洋は真庭市(旧久世町)出身の石井茂雄投手が先発のマウンドに立ちました。観客は第1試合よりも増え9000人。おそらくすごい盛り上がりだったと思います。

試合は太平洋が4回に3点を上げますが、すぐさま近鉄が石井投手を2本のホームランで打ち崩し、3対3の同点とします。

石井投手は5回を投げ切った結果、6回表に太平洋は神部投手から2点をもぎ取り、勝ち投手の権利を持って降板。土井選手の2試合連続ホームランも飛び出しますが、試合は9−4で太平洋の勝利。石井投手は地元で嬉しい白星をあげました。

 

石井茂雄さんは勝山高校に在学中、大学野球の合宿の練習試合に混じってプレーしていたところ、関係者の目に止まり、1957年8月に高校を中退して阪急ブレーブスに入団します。

石井さんの阪急時代には300勝投手の米田投手が全盛期であり、その陰に隠れてなかなか目立ちませんでしたが、入団翌年の8月から1軍で活躍し、1963年には17勝、64年は28勝、65年は21勝と3年連続で米田投手を上回る勝ち星を上げています。

オールスターゲームにも3回 (64、65、68年)出場。1973年に太平洋に移籍。1979年に巨人に移籍してその年に引退するまで通算189勝(185敗3セーブ)を挙げた大投手でした。

石井さんは打撃でも非凡な才能を持っていたと言われています。

調べてみると、1964年の打撃成績は打率.262で本塁打は3本(通算本塁打は11本)も打っています。

 

津山でプロ野球公式戦が開催されて49年。現在の津山市営球場は狭く老朽化も進んでいます。

高校野球岡山県予選も美咲町にあるエイコンスタジアムに移ってしまいました。

必要な修繕を施して県北部のスポーツ振興をしてほしいと思います。

 

 

 

落合橋の歴史

こんにちは。

美作では夏のイベント花火大会が開催されていますね。

(東京では隅田川をはじめ、ほとんどが今年も中止になっています)

7月10日には津山、7月23日には真庭市の美甘で開催されました。

7月30日には真庭市落合町で開催されます。

 

https://www.okayama-kanko.jp/event/12582  (岡山観光Web)

 

落合納涼花火大会は、岡山県北では津山に次ぐ規模の大きな花火大会です。

歴史は古く、昭和7年に地元商人達が、顧客へのサービスを目的に始まったと言われています。

落合の花火は打ち上げ場所が山に囲まれているので、音が反響するので迫力があり、旭川に渡したナイヤガラの仕掛け花火が美しいのも有名です。

私も子どもの頃は毎年のように花火を見にいきました。

さて、今日は花火大会の会場である落合橋の歴史を紹介します。

 

その昔、落合橋が架かる場所は交通の要衝であったにも関わらず、橋は架かっていませんでした。そのため夜中であっても往来する人馬を滞りなく渡し船で渡すことが定められていました。

もちろん大雨で川が増水した場合は船を動かすことができません。しかし交通が頻繁だったため、少々の増水なら船頭を増員して無理に船を動かすことも珍しくなかったようで、転覆事故も少なくなかったと言われています。

 

明治28年6月28日、落合で悲しい水難事故が起こります。

旭川は連日の大雨で増水し、前日まで3日間渡し船は運行できず、ようやく平時より120センチ水位が高い状態まで水が引いたので、船頭を2人に増員して船を動かすこととなりました。

平日の朝という時間帯でもあったことから、渡し船には小学生が乗り込みます。遅刻をしたくないと子どもたちは船頭の制止も聞かず多数乗り込み、渡し船は41名の超満員で出発することとなりました。そして旭川の真ん中で急流により転覆。遭難事故が発生したのです。

 

この事故で小学生4人を含む7名が溺れて死亡しました。

「落合町史」によると、当時落合町の助役でもあった、古見屋の福島氏が、事故発生時すぐに高瀬船の船頭に救助に当たるように指令を発したものの、川が荒れていたため、船頭が船を出すのを嫌がったと言います。

短気で有名だった福島氏は怒って、船を繋ぎ止めていた綱を鎌で切って回り、船頭を救助に向かわざるを得ないようにして、結果多数の遭難者を救助できたそうです。

 

この事故の後、渡し船で登校することに不安を感じる親も増え、川が増水する度に休校になったり、登校できない子どもが増えました。

これでは満足に教育を受けさせることができないという声が村々に徐々に広がり、橋を架ける運動が実り、明治43年10月に全長約126メートル(70間)、幅約2.7メートル(1間半)の木製の橋が架かります。これが初代「落合橋」です。

 

しかし、落合橋は大正9年と昭和9年の2度流失しました。

昭和9年の室戸台風による流失被害は落合橋だけでなく、岡山県全域の橋が流失する大災害でした。

岡山県は架橋と共に旭川の大改修(拡張)も行いながら、洪水にも耐えることができる堅固な橋を建設するとして、落合橋は木製ではなく、鋼鉄製の3つのトラス橋を繋げて建設されることとなりました。

昭和12年12月に総工費144,543円で着工。昭和14年に現在の落合橋(全長176メートル、幅5メートル)が完成したのです。

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以後落合橋は町のシンボルとして旧落合町の中心部に存在していきます。

現在は車線幅の狭さや耐重量が時代に合わなくなったため、平成元年に少し下流に完成した落合大橋(全長258メートル、幅12.8メートル)にメインルートとしての役割を譲り、市道として利用されています。