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落合橋の歴史

こんにちは。

美作では夏のイベント花火大会が開催されていますね。

(東京では隅田川をはじめ、ほとんどが今年も中止になっています)

7月10日には津山、7月23日には真庭市の美甘で開催されました。

7月30日には真庭市落合町で開催されます。

 

https://www.okayama-kanko.jp/event/12582  (岡山観光Web)

 

落合納涼花火大会は、岡山県北では津山に次ぐ規模の大きな花火大会です。

歴史は古く、昭和7年に地元商人達が、顧客へのサービスを目的に始まったと言われています。

落合の花火は打ち上げ場所が山に囲まれているので、音が反響するので迫力があり、旭川に渡したナイヤガラの仕掛け花火が美しいのも有名です。

私も子どもの頃は毎年のように花火を見にいきました。

さて、今日は花火大会の会場である落合橋の歴史を紹介します。

 

その昔、落合橋が架かる場所は交通の要衝であったにも関わらず、橋は架かっていませんでした。そのため夜中であっても往来する人馬を滞りなく渡し船で渡すことが定められていました。

もちろん大雨で川が増水した場合は船を動かすことができません。しかし交通が頻繁だったため、少々の増水なら船頭を増員して無理に船を動かすことも珍しくなかったようで、転覆事故も少なくなかったと言われています。

 

明治28年6月28日、落合で悲しい水難事故が起こります。

旭川は連日の大雨で増水し、前日まで3日間渡し船は運行できず、ようやく平時より120センチ水位が高い状態まで水が引いたので、船頭を2人に増員して船を動かすこととなりました。

平日の朝という時間帯でもあったことから、渡し船には小学生が乗り込みます。遅刻をしたくないと子どもたちは船頭の制止も聞かず多数乗り込み、渡し船は41名の超満員で出発することとなりました。そして旭川の真ん中で急流により転覆。遭難事故が発生したのです。

 

この事故で小学生4人を含む7名が溺れて死亡しました。

「落合町史」によると、当時落合町の助役でもあった、古見屋の福島氏が、事故発生時すぐに高瀬船の船頭に救助に当たるように指令を発したものの、川が荒れていたため、船頭が船を出すのを嫌がったと言います。

短気で有名だった福島氏は怒って、船を繋ぎ止めていた綱を鎌で切って回り、船頭を救助に向かわざるを得ないようにして、結果多数の遭難者を救助できたそうです。

 

この事故の後、渡し船で登校することに不安を感じる親も増え、川が増水する度に休校になったり、登校できない子どもが増えました。

これでは満足に教育を受けさせることができないという声が村々に徐々に広がり、橋を架ける運動が実り、明治43年10月に全長約126メートル(70間)、幅約2.7メートル(1間半)の木製の橋が架かります。これが初代「落合橋」です。

 

しかし、落合橋は大正9年と昭和9年の2度流失しました。

昭和9年の室戸台風による流失被害は落合橋だけでなく、岡山県全域の橋が流失する大災害でした。

岡山県は架橋と共に旭川の大改修(拡張)も行いながら、洪水にも耐えることができる堅固な橋を建設するとして、落合橋は木製ではなく、鋼鉄製の3つのトラス橋を繋げて建設されることとなりました。

昭和12年12月に総工費144,543円で着工。昭和14年に現在の落合橋(全長176メートル、幅5メートル)が完成したのです。

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以後落合橋は町のシンボルとして旧落合町の中心部に存在していきます。

現在は車線幅の狭さや耐重量が時代に合わなくなったため、平成元年に少し下流に完成した落合大橋(全長258メートル、幅12.8メートル)にメインルートとしての役割を譲り、市道として利用されています。