まるしてんblog 美作地方.岡山県をつらつら

美作地方、岡山県の交通、民俗、方言など

美作の災害 昭和9年室戸台風② 美作地方の被害の概要

こんにちは。

前回に引き続き昭和9年の9美作地方を襲った室戸台風について書きます。

室戸台風は9月20日の夜に美作地方に再接近していますが、当時の気象データによると9月16日あたりから雨が降り始めていて、5日間の平均雨量は旭川流域で平均雨量280ミリ、吉井川流域では159ミリとなっています。そして雨量は県北部ほど多く旧湯原町では総雨量が503ミリを記録しています。

以下美作地方(当時の美作1市5郡)の主な被害状況です

真庭郡 死者34 重傷者31 全壊・流失家屋494 半壊653 床上浸水1832

苫田郡 死者5  重傷者9  全壊・流失家屋135 半壊111 床上浸水 94

津山市 死者3  重傷者なし 全壊・流失家屋18  半壊19 床上浸水616

久米郡 死者1  重傷者17 全壊・流失家屋163 半壊269 床上浸水371

勝田郡 死者1  重傷者2  全壊・流失家屋133 半壊124 床上浸水151

英田郡 死者1  重傷者5  全壊・流失家屋52  半壊61  床上浸水2

旭川流域に位置する真庭郡久米郡の被害が大きいこと。また上流部ほど被害が大きいことがわかります。

記録としても、旭川沿いの被害の様子が多く残されています。

旭川沿いの湯原温泉、足温泉は洪水により全滅の様相。

・落合の旭川の最大水位は10メートルを超え、町の8割が床上1.5メートルまで浸水。湖のようになる

・西川(旧旭町)では川沿いの家屋は全て2階まで浸水し、小学校と民家1戸を残し押し流される

 

旭川・吉井川は流域の住民に多大な恩恵を与え続け、美作地方の物流も担ってきました。

しかし時には大きな災害をもたらしてきたことも事実です。

過去の悲劇を繰り返さないために、旭川や吉井川には大きなダムができたり、川の工事がすすみました。しかしその代償として魚など川の恵みは消えていきました。

そして今、地球規模の気候変動で今年の夏のような大雨も降るようになるなかで、いかに自然と向き合うかが問われていると思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

美作の災害 昭和9年室戸台風①鉄道と橋の被害

こんにちは

1934年(昭和9)年の9月20日から21日にかけて、岡山県全体に甚大な被害をもたらした室戸台風

津山線(中国鉄道)の旭川橋梁の被害と復旧については、先日のブログで書きましたが(8月20日 室戸台風津山線)、鉄道だけで県内150箇所で橋の流出や土砂崩れ、道床の流出があったと記録されています。伯備線では足立駅付近を走行中のSLが土砂崩れに巻き込まれて、機関士亡くなる事故も発生しました。

他の美作地方の鉄道への被害ですが、姫新線の久世と中国勝山の区間の線路が路盤ごと流されて58日間不通になりました。

因美線岡山県区間は36箇所で被害が発生。美作河合から物見トンネル間での河川の決壊や美作河合から知和間で加茂川付近の線路が流失の復旧には時間がかかり、津山保線区から延べ15000名が24時間体制で復旧にあたったそうです。(不通の期間は20日間)

 

人や車が通行する橋の被害はもっと深刻でした。

当時の資料によると岡山県内の50メートル以上の橋のうち、吉井川水系26%(10カ所)、旭川水系73%(22カ所)、高梁川水系40%(14カ所)が被害を受けました。

津山市の中心部にある今津屋橋もこの時流されてしまいました。

岡山県は直後から専門技師を着任させ土木課職員を増員し、復旧を本格化させます。

たくさん書きたいことがありますが、今日は旧奥津町の被害があった橋について紹介します。

奥津町で被害を受けた橋は上流から、水原橋、奥津橋、大釣橋、落合橋と続きます。

復旧にあたり、桁が作りやすい水原橋、奥津橋、落合橋はスタンダードな形態の橋で設計され、1936年7月から1937年1月にかけて開通しました。

一方で大釣橋は川幅は短いものの(約30メートル)、奥津渓谷にかかり橋桁が渡せません。戦時中で鋼材が高騰するなかで、この橋だけは鋼材を使ったトラス橋がとしてかけられました。

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この4つの橋は、現在の国道179号線が開通するまでは国道として使用され、人形峠の開発や奥津や恩原、三朝温泉への観光ルートとして賑わいました。

子どもの頃、奥津に住んでいましたが、あの狭い道を大きなトラックやバスが頻繁に行き来していたのを思い出します。水原橋や大釣橋の手前では直角カーブがありトラックのすれ違いも大変そうでした。

大釣橋は奥津渓のシンボルとして今も存在感を示しています。

 

美作の災害 地震について

こんにちは

ここにきて全国各地で地震が発生しています。大きな被害はまだ出ていませんが不安です。

岡山県は昔から地震が少ないといわれています。しかし「少ない」だけであり全くないわけではありません。

岡山県南部はこれまでも紀伊半島や四国沖を震源とする大きな地震で被害を受けてきましたし、美作地方でも記憶に新しいものとしては、2016年10月の鳥取県中部(倉吉市付近)を震源とした地震で上斎原付近で最大震度5強の揺れを観測(津山は震度4)、2000年10月の鳥取県西部地震でも岡山県北は広範囲で震度5を観測し、家屋の被害も発生しています。

 

さらに美作地方の文献を調べてみると、1710年(宝永7年)閏8月(現在の10月)と1711年(宝永8年)2月に大きな地震が発生しています。

この2つの地震は半年の間で発生しました。1710年の地震震源伯耆国鳥取県中西部)が震源とされています。小雨が降る天気のもと、2日間に2回大きな揺れがあり、今の真庭市で「家屋潰れ山野崩壊圧死人あり」と被害が記録されています。

1711年に起きた地震震源は、真庭市の山間部だったようです。津山藩によって詳細に調査した資料によると、家屋の全壊118軒、半壊141件、山崩れ70箇所、田畑の被害8箇所、井溝の被害6箇所、牛馬4頭が死亡と記録されています。

 

岡山県北には兵庫県の播磨地方から続く山崎断層帯が存在しています。詳しくは記録として残されていませんが、861年に兵庫県北西部の断層周辺でマグニチュード7.1の大地震があり被害もあったと言われています。

この断層を形成している那岐山周辺での地震発生については、発生確率こそ0.09〜0.2%と低いですが、予想される地震規模はマグニチュード7.3程度です。

マグニチュード7.3という数値はあの阪神淡路大震災と同じであり、決して軽視してはいけないと思います。

30年以内に70〜80%の確率で起こるとされている南海トラフの巨大地震が最も陸地に近い場所を震源として発生した場合も、津山市真庭市美作市いずれも最大震度5強が想定されています。

常に災害への備えを怠らないことが大事です。

五輪原の風力発電

こんにちは

先日の山陽新聞に五輪原高原に大規模な風力発電所の着工が10月から始まるとの記事が掲載されていました。

五輪原高原は津山市(旧加茂町)の標高1000メートルにある高原です。500万年前の火山の噴火による溶岩の堆積物により山頂付近に形成された平地で、蒜山高原や日本原高原と比べればはるかに規模は小さいものです。

昭和の末期から平成にかけて、ここは岡山県農地開発公社(現在は解散)が県営農地開発事業で大根畑として開発しましたが、苦戦します。(大根はおいしいです)

その後、2008年に風力発電の建設計画が持ち上がります。標高が高く平均して風が吹いていることが決め手になったようです。(近くの大ケ山はパラグライダーも飛んでます)

当時の計画は、高原付近に高さ135メートルの2500キロワット級の風車を32基建設し、8万キロワットの電力を電力会社に売る予定でしたが、天然ブナ林などの環境保全や景観問題、さらには国の電力買取制度の変更で計画が見直すことになり着工が遅れました。

今回、新聞記事によると高さは120メートルで4100キロワット級の風車を16基、5万1300キロワットの発電に変更されたようです。

イメージ図を見ると、確かに景観が大きく変わりそうです。

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2010年、当時の石井岡山県知事は「風力発電施設に対する美的価値観は人それぞれであろうが、自然公園に隣接する地域において建設されることは、本質的に大きな問題を内在するものであると考えざるを得ない」と発言していました。

五輪原の風力発電は完成すると20,795世帯分の電力を作ります。脱炭素社会への貢献は大きいはずです。一方で、メガソーラーや風力発電所が急増する背景には農林業の疲弊や過疎の問題も存在しており、チェックを怠ればかえって自然破壊になっていないかという危惧も持っています。

 

 

 

因美線のお魚列車

こんばんは

先日、図書館に行きなんとなく手にした本f:id:marushiten:20210913192533j:image

懐かしさとともに新しい発見がありました。

コロナで半年以上行ってませんでしたが、図書館って本当にいいですね〜

この本に因美線の車内で魚の行商をされていた加茂のMさん(故人)の体験談が掲載され、因美線が美作地方の食生活を支えていた歴史がしっかりと紹介されていました。

※加茂=因美線では美作加茂駅

鉄道が走っていない時代、海のない津山.美作地方への海産物の輸送はもっぱら人力でした。「作州のタコにはイボがない」という言葉があるように、津山に魚が着く頃には新鮮さは失われます。

(ただし、山国であるにもかかわらず因幡伯耆から美作地方への海産物の流通は昔から盛んでした)

因美線の開通後は鉄道を利用して魚を売る行商人が毎日のように美作地方に訪れ、新鮮な魚も流通するようになります。

戦後、行商人が組織化されるなか、昭和30年代には因美線の沿線には若桜、用瀬、智頭、那岐、津山に行商の会員がいて、因美線沿線の各駅のほか、勝山や久世、佐用、亀甲と姫新線津山線沿線まで魚を売りに行っていました。

行商の仕組みですが、鳥取で魚を仕入れる人がいて、列車内で行商人に卸すというスタイルでした。

本で紹介されていたMさんは加茂の人ですが、毎日鳥取で泊まって魚を仕入れ、朝一番の因美線の汽車に乗り途中の駅で乗ってくる行商人に魚を卸して帰る日々を送っていました(時刻表は1964年のもの)

今は1両編成ばかりの因美線ですが、昔は行商のための車両も繋げて鳥取津山駅を直通していたのです。

Mさんは智頭急行ができて、鳥取から津山までの通し運転がなくなっても、足を痛めた平成20年ごろまで仕事を続けていたそうです。このことは本を読むまで知りませんでした。

コロナで鉄道会社は経営が悪化し、芸備線は廃止の危機に直面していますが、因美線(智頭から津山)もかなり危うい状況だと思います。

しかし、古くは生活に密着し美作の文化や経済を支えてきた公共交通です。残してほしい.残したいものだと思います。

 

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作陽高校の移転と美作地方の高校の統廃合

こんばんは

先日、正式に作陽高校が津山市から新倉敷に移転するとの会見がありました。

会見で作陽の理事長は「津山市の人口に対する私立高の数の適正規模を考えた。」と述べられていました。90年にわたり津山で多くの若者を育てた作陽高校がいなくなってしまうのは残念ですし、このようなことを言わせて移転をさせた津山市の責任は大きいと思います。

近年、岡山県北部では県立高校の統廃合がすす見ました。

昔は合併前の町にひとつくらいはあった高校がなくなり、子どもたちは長距離の通学を余儀なくされ、しかも通学手段としての公共交通(鉄道や路線バス)は年々不便になっています。これでは子育て世代は県南部に流出してしまうのは仕方がありません。

加えて中高一貫校が県南部に集中しています。(津山高校も中高一貫教育を始めています)

こうした中、作陽高校が津山からなくなることは、美作地方における私立高校が美作高校だけになりさらに選択機会が失われるのです。

以下、戦後の美作地域の高校の統廃合・廃校をまとめました(一部統合は除きます)

少子化は日本全体の問題であり、高校の数が少なくなるのは仕方がないという受け止めがあるかもしれません。でもその地域から学校がなくなることは子育て世代が離れていき、近い将来の地域社会の危機に繋がることも忘れてはいけないと思います。

 

1966年旭高校(旧旭町)が久世高校に統合

1982年津山基督教図書館高校(私立)廃校

1985年津山東高校加茂分校・鏡野分校・苫田分校(旧奥津町)が廃校

1987年勝山高校湯原分校廃校

2004年至道高校(旧北房町)が落合高校に統合

2009年江見商業高校(旧作東町)が林野高校に統合

2011年落合高校と久世高校が真庭高校に(それぞれ校地は存在)

2013年蒜山高校が勝山高校に統合(蒜山校地は存在)

2006年大原高校が林野高校に統合

2007年日本原高校が勝間田高校に統合

2012年弓削高校(久米南町)が津山工業高校に統合

 

 

 

 

津山の天文家★

こんにちは。

8月30日の山陽新聞井原市美星町のスペースガードセンターで発見された小惑星に「矢掛本陣」の名前がついたとのニュースが紹介されていました。

さすが、全国初の「光害防止条例」を施行し、天文の町としてならしている美星町井原市)です。

 

しかし星については津山だって負けていません。

今日は津山にゆかりのある2人の天文家を紹介します。

一人目は世界的にも有名な新天体捜索家の多胡昭彦さんです。

多胡さんは、神戸から津山に移り住み、仕事をしながら天文観測を続けてこられました。

30歳を過ぎて、1968年にC/1968多胡・本田・山本彗星を発見、以後2012年までに3つの彗星と7つの新星を発見しています。(国立天文台より)

また、新星の発見だけでなく、2006年にはカシオペア座付近での天体のマイクロレンズ現象(光が急に明るくなること)も発見・発表し、天文家の間で脚光を浴びました。

多胡さんは、津山の自宅に天文台を自ら作り、新しい星を発見しています。

都市化が進んだ津山で21世紀に入っても新しい星を発見されたことは本当にすごいことだと思います。

多胡さんは1996年からは美咲町(旧柵原町)のさつき天文台の運営にも携わり、天文学の普及に尽力をされました。

 

2人目は小槙孝二郎さんです。

小槙さんは1903年津山市内で生まれ、岡山師範学校の在学中に天文学を学びます。

1926年には津山基督教図書館が設立された際には天井に大きな星座の早見表を設置しました。

その後、和歌山県に生活の拠点を移し、教職をしながら生涯にわたって2万を超える流星観測を行なうとともに、「日本流星研究会」を設立し日本だけでなく世界の天文家との交流をする先駆者となりました。1957年には人工衛星観測班をアメリカのスミソニアン大学の呼びかけで結成し、その業績から国際地球年委員会から表彰もされました。

 

日本の天文界の中でも津山の方が活躍されてきたことは本当に嬉しいです。