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津山と戦争

こんにちはまるしてんです。

今日は76年目の終戦の日です。

終戦以来、日本には一発の爆弾も落ちてくることなく、私たちは戦争のない平和な日本を享受することができています。

これからも平和であるように、私たちは不断の努力が必要だと思います。

 

今日は、津山市史第7巻を参照し、旧津山市(昭和の合併前)の戦争被害などを紹介します。

昭和6年満州事変から津山市内から何人が戦地に動員されたのか。正しい数は軍事機密であったために残されていませんが、試算では約4千数百名とされています。

昭和18年津山市の男子人口は18,518人ですから2割を超える者が出征したことになります。

戦死者はわかっているだけで旧津山市で1,323人(岡山県調査)つまり出征した3分の1近く、男子人口の7.1%の方が戦地で若い命を落とされました。戦争が終わり復員した方(昭和24年までに2655人)の中にはシベリアに抑留された人もいました。

戦時中、日常必需品は全て配給制となり、市民生活は困窮を極めました。農家も自家用の作物を残して軍に買い上げられました。そのため津山城内や川原、道路の片側までが畑になったそうです。残っていれば名勝となったであろう小田中の松並木(西松原)は軍用の船を作るために伐採・供出されました。

さらに昭和20年6月の岡山大空襲の後に防火のための建物疎開(建物を破壊し、延焼を防いだり避難経路を確保する)をすることとなり、市内の42戸や公会堂などが打ち壊し。大正に再建された津山城天守閣は空襲の目印になるという理由で壊されました。

さらに、終戦直後には、親戚や知人を頼り多くの引揚者が転入して来ました。台湾や満州樺太からの引揚者は1,590世帯4,221人、国内の戦災から逃れて来た戦災引揚者は1,310世帯3,542人。食料不足が続く中でも、津山では引揚者のために衣料や日用品を無償で配給や住宅の供給や就職のあっせんも行なったそうです。

 

津山には空襲はありませんでした。しかし戦争は多くの市民の命を奪い、生活に大きな影響を与えたことは確かです。このことを忘れずに生きていこうと思いました。