屋敷の敷地に踏切がある風景
まずはこの写真をご覧ください。
立派な屋敷に続く階段の先にJRの踏切があります。
美作国二宮、高野神社の近くにあります。
この屋敷の入口には、自由民権運動功労者 立石岐翁の功績を讃える石碑が建てられています。
石碑には、だいたいこのようなことが書かれていました。
「立石岐氏は弘化4年に浅口郡で生まれ、二宮村の大庄屋であった立石家の養子となり、美作地方に養蚕業の普及を進めた。明治11年に共之社を設立し、製糸工場の経営にも携わる。また岡山県会議員としても活躍。備前・備中・美作の親睦会を結成し、国会開設運動をすすめた。明治23年の第一回衆議院議員選挙で当選後は国会議員としても活躍した。中央政界引退後も地域の発展に貢献し、二宮小学校の設立に際しては土地の大部分を提供した。中国鉄道の開発国会開設など近代化の先覚者だった岐氏は昭和4年に亡くなった」
石碑にも刻まれている通り、立石氏は現在の津山線、姫新線の開通にも尽力をしました。
立石氏は明治期にいち早く山陰と山陽を繋ぐ鉄道の必要性を説いてまわり、現在の津山線・吉備線を建設した中国鉄道の設立の中心人物となり、専務取締役も務めます。
その甲斐あって、中国鉄道は岡山ー津山ー勝山ー米子の路線実現を目指し建設が始まり、明治31年に岡山ー津山(現在の津山口)が開業します。これは全国で40番目、岡山県内では山陽鉄道に次ぐ2番目の早さでの開通でした。
しかし、津山から米子までの区間は実現できませんでした。断念せざるを得なかったのは主に財政的な理由でしたが、当時はいわゆる市街地(旧城下町)に鉄道を敷設することは、火事になるとか街が廃れるという反対もあったでしょうし、津山では吉井川に橋をかけることが洪水につながるという理由もありました。実際に鉄道が市街地に入ることを許されなかったため、勝山・米子方面にどう鉄道を敷設するかも大きな障壁になっていました。
中国鉄道の米子延伸を断念せざるを得なかったことは立石氏も悔しかったようで、約20年後に国が作備線(現在の姫新線の一部)を建設するに至った際は、鉄道の最短ルートでもあった自らの屋敷の前の土地を提供して開業を目指し、大正12年、津山口ー津山間ー津山ー美作追分間が開通。後に姫路ー新見を結ぶ姫新線の全通につながりました。
美作地方にとって立石岐氏の功績はとても大きなものがあります。
今後、紹介していければと思います。