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米相場の伝達方法

こんにちは。まるしてんです。8月6日に「大阪・堂島で行われてきたコメの先物取引が廃止となることになった」という興味深いニュースがありました。

 

大坂が「天下の台所」に発展したのは米の売買。1730年に江戸幕府から認可された堂島の米市場は世界初の組織的な先物取引所と言われています。

経済のことは疎いのですが、先物取引とは現物をもって売買をするのではなく、将来の売り買いについての「相場」を決めることだと理解しています。

江戸時代、米の価格の変動は経済そのものを左右する一大事でした。津山藩でも藩の米を売る価格を決める際は「大阪や隣国の相場を念頭にいれる」との記録が残っています。明治に入ると経済活動はより活発になり、コメの価格の変動はより素早く・激しいものになったでしょう。

 

では、その相場を津山ではどう知るのか?今ならネットをはじめ様々な情報伝達手段で知ることができますが、昔はそうはいきません。早飛脚などを使っていては大阪から遠いほど不利になります。

これにはさまざまな説がありますが、有力なものは備前西大寺の間を行き来する高瀬舟の船頭から情報を得ていたという説です。確実に伝わる方法ですが、西大寺から津山まで川を上るまで2日はかかり、この情報で満足できないと思います。

もう一つの説としては「旗振り」が津山まで届いていたのではないかということです。

「旗振り」とは、大阪から地方の米相場に見通しの良い山や町中につくられた櫓を使い、大きな旗や灯火で堂島でのコメの値段を伝令する方法です。だいたい10-20キロごとに中継点がおかれており、電話が普及する明治時代まで続いていたそうです。

旗振りのエピソードは以前、NHKの番組で紹介され(明治時代の岡山が舞台でした)、有名になりました。  

 

伝達速度はおそろしく速く、一説によれば大阪堂島から岡山まで15分、先の広島までは27分といわれています。実際に岡山までは、ほぼルート(水色の線)が解明されており、昭和56年に実験が行われたときは2時間で堂島に到達しました。空気がきれいで熟練の降り手なら岡山まで15分というのは本当だと思います。

 

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大阪堂島から岡山、津山の距離

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旗振りが行われていたと考えられている経路

 

旗降りは、赤穂の天狗山から熊山、あるいは長船の西大平山を経由し、操山にあった旗振り台から岡山市街に。あるいは高瀬舟が行き交う西大寺まで届いていたようです。

津山藩西大寺の船頭から聞いたのは、この旗降りの情報でしょう。

 

津山まで旗振りの情報が届いたかというのは未解明です。しかし、個人的には熊山あたりから何か所かを経由して旗振りが行われていたのではないかと考えています(ピンク色の線)。

それくらい江戸時代における米の価格は重要事項であったからです。みなさんはどう思いますか?