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津山と神伝流

こんにちはまるしてんです。

 

オリンピック真っ盛りですね。

個人的なことを言えば、コロナで今回のオリンピックは心から楽しめていないというのが正直な気持ちです。

でも、岡山出身のアスリートは応援しています。特に射撃の岡田選手は津山市出身。出場おめでとうございます。

 

さて、今回はオリンピック・そして夏にちなんだ津山の話題。

日本の古式泳法でのし泳ぎってありますよね。

子どもの時、自分たちはあの泳ぎ方をみんな「神伝流」と呼び、真似ていました。(津山あるあるだと思います)

また、プールが津山高校の近くにあったこと。泳ぎながら字を書いたり、扇を開いたりして見せていたのを覚えています。

 

津山市民に根ざした神伝流は、愛媛県の大洲が発祥で松山藩で発展したものです。

なぜ津山に神伝流が入ったのか。それは1828年津山藩兵学師役が自分の息子に松山に4年かけて夏に水練に行かせたことがきっかけでした。なお津山藩は「許可するけど、自ら希望していくんだからお金は出しません」と、自腹で行ってこいという態度だったそうです。その後、神伝流は津山藩に採用され、藩士の水練が始まりました。吉井川の安岡町あたりが道場だったそうです。

 

やがて津山藩に転機が訪れます。1838年に小豆島の一部が津山藩となり、水練の重要性が増したのです。前回、自腹で行かせた津山藩もこれで態度が変わります。

水練の基礎ができていた植原六郎左衛門に「どこに頼っていいから修行しろ。先方への謝礼やかかった費用は出す。ただし藩から言われて来たというんじゃなくて、個人で修行に来ましたと言うように(意訳)」と命じて修行に行かせました。植原氏はその8年後に松山から神伝流の免許を得て指導にあたることになりました。津山藩はたいそうこれを喜び、植原氏に刀を与えたそうです。

植原氏はその後、神伝流の奥義を極め10代目の宗師となり(これにより宗家が津山になる)、江戸詰めとなって以降は築地に水練場を作り、津山藩だけでなく他藩の士や旗本にも水練を教えていたそうです。

その後も神伝流は津山で連綿と続き昭和31年には市の無形文化財になりました。

 

海がない津山の兵学師が江戸で泳ぎを教えていたのは驚きですよね。

(津山市誌5巻を参考に記事を書きました)