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津山が津山じゃなかった可能性

こんにちは

今回の記事少し大きな画像を使います。

津山が津山じゃなかった可能性というタイトルを付けました。

前回の投稿で、現在の津山の中心部は戸川(富川)と呼ばれていたこと。津山はお城が建った鶴山という山に由来し、それが都市名になったことを取り上げました。

津山城の位置をグーグルアースの画像で改めて確認します。

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南は吉井川、東は宮川(写真にはありませんが、さらに東には加茂川が流れています)が天然の濠のような役割を担い横切っています。北は盆地が広がっていますが、宮川が北側まで延びているうえ、森氏が作った池を多用した衆楽園という庭園が現在の3倍以上の大きさで立ちはだかっていました。戦国時代、城は基地の役割を担っており、場所の選定も防衛を優先していたんだと思います。

余談ですが、五行思想をご存知でしょうか。平安京や江戸の街を作る際に、「北に丘陵・東に青龍・南に湖沼・西に大道」という四神相応の思想のまちづくりです。

津山の城も北に神楽尾山、東に宮川と加茂川、南に大きな吉井川、西に出雲街道と岡山に行く道(岡山往来)とこれに倣っている気がしないではありません。

 

話を戻します。当初、森氏が城を建設しようとした場所は実は鶴山ではありませんでした。

津山市の西部にある院庄(いんのしょう)、写真で見ると清眼字のあたりにあった構城(かまえ)を中心に考えて準備を進めていたといいます。

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この場所は吉井川が津山盆地に沿って南から東に流れを変わり久米川もあるため西と南が天然の濠のように守られています。

東と北も山が迫り進路が塞がれる形になっており、鶴山のような山ではないものの守りは堅いはずです。

この場所の築城は準備を進めていた家臣の刃傷沙汰で頓挫しました。(詳しくはいずれブログで書きたいと思います。)

計画通り、院庄にお城ができていれば鶴山に由来した「津山」の地名はなく、岡山県院庄市とか岡山県構市になっていたかもしれませんね。