まるしてんblog 美作地方.岡山県をつらつら

美作地方、岡山県の交通、民俗、方言など

津山城(鶴山公園)の石垣の成り立ち

昨日(8月28日)の山陽新聞で「津山城の石垣往時の姿へ 修復工事折り返し22年7月完成」の記事が掲載されていました(さんデジ会員限定記事です)。

天守閣が取り壊されている津山城址(鶴山公園)のシンボルは、いうまでもなく大規模な石垣です。その石垣を後世に向け修理し、保存することは大きな意味があります。

また石垣を保存する技術の継承という点でも有意義です。

 

1600年の関ヶ原の合戦直後、美作の国は西軍を裏切り合戦の戦局を変えた小早川秀秋備前の国とともに支配されます。小早川氏の美作国の支配体制は、勝山と林野(高田城と倉敷城)に重臣を置いたとされていますが、非常に短期間であり確立しなかったようです。

小早川家の断絶後、美作国森忠政が長野の川中島から入ります。今で言う栄転です。

そして森氏により津山城の築城が始まります。(当初は院庄に城を築く予定でしたが、刃傷沙汰で取りやめ、鶴山になりました)

1604年に始まった津山城の築城。

石垣づくりにおいては、まずあれだけの規模の石垣の材料となる石をどう確保するかでした。美作国は海から遠く、巨大な石を容易に確保できません。

そこで森氏は、石を確保するために、家臣の家族も動員して河原の石を集めさせただけでなく、国内にあった古い城の石垣を崩し、ことごとく集めたほか、古墳や墓石までも集めたという記録があります。(今なら文化財の破壊行為ですね)

一方、木材の拠出は山が近く容易であったと考えがちですが、完成当初は姫路城よりも多くの櫓(77棟・姫路城は61棟)を擁する津山城の建設のため大量の巨木が必要で、湯原の奥の方から切り出した巨木は、旭川を通じて海まで流し、吉井川を遡り津山に運ばれています。

当然、多額の費用と労役が及ぶ庶民にとってはたまったものではなく、反発もあったと思われ、1616年の完成までには13年の歳月を要しました。

 

時代がすぎ、明治6年に津山城は政府から取り壊しを命じられます。全国では城を残す運動が起きたところもありますが、津山でそのような動きはありませんでした。

津山藩が仁政だったということは聞かず、厳しい年貢の取り立てなどで大規模な一揆も起こったことから、旧支配体制のシンボルの城を残せという感情はなかったのだと思います。

壊した城の廃材は市内の民家や学校、神社に移築されたものもありますが、多くは川を下り塩田の燃料(薪)になりました。

城内の土地も安く払い下げられ、私有地と官有地が混在することとなります。私有地となった場所は桑や茶畑になり、あるいは放置され荒地となりました。

手入れがされない石垣も年月がすぎて崩壊の危険が生じて来ました。そこで旧津山藩士が城跡の保存運動を初めます。

石垣の崩壊による市街地での災害防止に加え、戦争がはじまり、津山城にある私有地が外国にわたってはならないという治安上の課題も浮かび上がり、私有地となっていた土地を町が買い取り、明治33年に津山城鶴山公園に生まれ変わり、石垣の保存がすすんだのです。

そして日露戦争後に帰還した兵隊が公園に桜を寄付したことから、桜の植樹が進み、鶴山公園は桜の名所に発展をとげます。

支配体制のシンボルから、市民に親しまれるシンボルとなった石垣と鶴山公園の歴史でした。